2007年08月01日

戦国の名軍師たち 

1 山本勘助

なぞに包まれた知勇兼備の武将
全国を武者修行して青年期をすごす。
板垣信方の推挙で武田信玄に仕える。

上田原の戦いで村上義清を破り武田家を勝利に導く。しかしこの時板垣は村上軍に討ち取られている。

築城や軍略にすぐれた勘助だったが、越後の龍とよばれる上杉謙信には、かなわなかった。
1601年の川中島の戦いで高坂弾正の別働隊をもちいて上杉軍を挟みうちするきつつき戦法を用いたが、謙信にこの策が見破られて本陣が危機状態になってしまった。

責任を感じた勘助は敵陣に突入して、越後の侍大将の鬼小島に首をとられる。この合戦で鬼小島も重症を追いこのあと死亡する。

勘助の首は部下たちが敵から取り戻して、小さな小川で首と胴をくっつけることができた。
この橋は胴会橋と呼ばれています。
またこの合戦で武田信玄の弟の武田信繁も討ち死にとう大損害をくらいました。

2 竹中半兵衛
36歳の若さでなくなった羽柴秀吉の軍師。
日本の張良、諸葛亮ともよばれる名軍師である。

最初は美濃の斉藤家に仕えていたが、君主の龍興がどうしょうもないので、稲葉山城をのっとる。しかし、すぐ返還してしまう。
織田信長にその才を買われて仕官するようヘッドハンティングがきたが断る。
しかし、羽柴秀吉の三顧の礼で秀吉に仕官することとなり、軍師の竹中半兵衛の人生がスタートするのである。

秀吉にしたがい近江攻略戦で戦功をあげる。
姉川の合戦で浅井・朝倉連合軍を破り、横山城防衛戦では秀吉の弟の小一郎と浅井軍と一揆軍をわずかな兵でやぶるのである。

ついで小谷城攻略戦で浅井家を滅ぼし、長篠の戦いでは武田の騎馬軍団を鉄砲でやぶるのである。

しかし、中国ちほうの別所長治の守る三木城攻略の間に陣中で病死してしまうのである。
そして秀吉の天下獲りの野望の参謀は黒田官兵衛に引き継がれるのである。
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2007年07月23日

伊達政宗のライバルの佐竹義宣

関東の名門佐竹は清和源氏の子孫の源義家の子孫である。

義宣の父は、通称「鬼義重」と呼ばれ、常陸の国の全域を支配した。
そして、北条氏とは、宇都宮・結城氏とむすんで迎え撃った。

義宣の初陣は敵方の北条氏直に内通する壬生義雄の討伐戦であった。
このとき父の義重と連署して家臣に感状をあたえている。

弟の義広は陸奥の国の蘆名家を継ぎ伊達政宗の進出にそなえた。
正宗と対立する義宣だが、実は親戚どうしである。
義宣の母親は、正宗の祖父、伊達晴宗である。

天正17年に弟の義広の蘆名家が伊達政宗に攻められて、ついに居城の会津黒川城を捨て太田城へのがれた。
義宣はこの事件を秀吉に訴えて、秀吉は正宗に兵をひくように命じた、また越後の上杉景勝に義宣、義広の支援を命じた。

これにそむいた正宗は北条氏直・氏照とむすび、佐竹家を挟み撃ちの戦略をとった。

翌年に義宣は伊達方に寝返った白河義親と戦って敗れたが、この陣中で秀吉から小田原攻めの命令が下った。
この時、ライバルの伊達政宗は友好のある北条攻めになかなか腰をあげなかったが、ついには秀吉に従ったのである。

義宣はこれ以降、豊臣方の大名として常陸と下野の一部、陸奥南郷・赤舘領を安堵された。

奥州平定や朝鮮出兵に参戦し関が原では西軍側について、2年後に秋田20万石に転封された。

西軍側についた大名はことごとくつぶされたにもかかわらず、中国の名門の毛利家どうようにかろうじて減封だけですんだ。

よわたり上手と政治力のよさで家名を守った義宣であった、
posted by しげる at 18:05| Comment(0) | TrackBack(0) | 戦国武将たち | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする