2008年02月23日

単身赴任の滝川一益

滝川一益といえば織田信長の重臣でもあり関東管領の職についた武将でもしられています。

おもな戦歴として1576年の北伊勢攻めで活躍して、1582年には名門の武田勝頼の首級をあげています。

この功が生じて関東の守り役となりました。
厩橋城に入った一益のもとには、大勢力の北条氏だけでなく東北の伊達や蘆名までもが彼のもとに挨拶にきたほどの統率力をもっていたのである。

滝川はけっして勇猛果敢な武将だったわけではないようだ。
どちらかといえば計算高い武将だった。
越前の朝倉を滅ぼしたあと、所領安堵の事務的業務を明智光秀と羽柴秀吉といった頭脳的武将とひけととらない仕事ぶりでその業務をこなしたのである。

政務に長けた信長軍団のなかで貴重な逸材でもあった。
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2007年09月16日

家臣統御気配り上手の加藤嘉明

日本三大平山城の伊予松山の城は加藤嘉明によって築城された。
秀吉に仕えて、福島正則らとともに7本槍のひとりである。


征韓の時の功で伊予正木城に入封し、ついで松山城にはいった。

武功だけでなく築城とまたマネジメントでしられた加藤嘉明、部下の心をつかむことに精をだしたそうだ。

あるとき家臣が高価な大明製の10枚皿のうち1枚を割ってしまった。これを見た嘉明は咎めもせずに残りの9枚を投げ割った。この過ちを長く忘れようとしたのである。
また家臣が同輩を誹謗しているのを見つけた嘉明は鴨羽と酒1樽をあたえ日ごろの労をねぎらってから同輩の中傷を戒めた。

嘉明の妻は松山城築城の際にみずから路傍にたって炊き出しなどをしたそうだ。また石垣を旧城の正木からもってくるとき、商人衆にたすけてもらったそうだ。
これは日ごろの嘉明の心使いのたまものであろう

33年間の松山領知のあと会津に転封となる。しかし、明成の時代には除封になる。

加藤嘉明の家臣への気遣いは現代のビジネスマンが勉強するとよいでしょう。



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2007年08月10日

没落から復活した立花宗茂

 立花道雪の婿養子となって立花城に入り、厳しい教育を受ける。
立花道雪とは、鬼道雪の名でしられる猛将である。

羽柴秀吉の九州征伐後、羽柴の姓を与えられ大友氏から独立、筑後柳川13万2千石に封ぜられた。

朝鮮出征に活躍し、加藤清正を救う等して武名を高める。

関ヶ原の戦いでは西軍につき、西軍敗走後、居城に籠もるが降伏し改易される。
この時に乞食生活をしている。まさに転落である。
しかし、宗茂の人柄を惜しむ声が多く、3年後に奥州棚倉1万石に返り咲き、大坂の陣で戦功をあげ、旧領柳河11万9千石を回復する。

島原の乱では有馬城を攻略した。

宗茂の鬼嫁も有名ですね。
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2007年07月20日

仲介役の織田有楽 

織田有楽といえば織田信長の弟である。

容貌は信長、信忠、信雄とよく似ているが、性格はまったく逆である。
物事すべてに白黒をつけはっきりさせる信長の性格に対して有楽は、はっきりとせず灰色であり、腹の内をはっきりさせない性格であった。

武将としての戦功は信州の深志城を攻略したぐらいである。
これからというときに兄の信長は本能寺で急死してしまうのである。
このとき、有楽の近くにいたが、運よく明智光秀の包囲を突破している。

これから、茶人であり仲介役の有楽の人生が始まるのである。
まず秀吉に仕えて、小牧、長久手の戦いの仲介役を務めた。
次に関が原合戦後の豊臣と徳川の仲介を務めるのである。
このとき、秀頼と家康の会見を成功させている。
大阪冬の陣でも和議を成立させた。

どちらかといえば、豊臣方にいた有楽だが、豊臣方武将の真田信繁や後藤又兵衛らとは意見が合わなかった。
あわなかったというよりは、有楽の意見はすべてが、はっきりしなかったのである。

豊臣家滅亡後は茶人として生き75歳で没した。

有楽のようにはっきりしない性格が、戦国の世をわたりきれたので、なかなかの武将ですね。





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2007年05月09日

関が原の戦いで名将直江兼続を苦しめた最上義光

家督争いで家督を奪った義光だがさらなる試練を迎えた。

慶長3年(1598年)8月に秀吉が死去すると、義光は徳川家康に接近する。次男の最上家親が徳川秀忠の近侍を務めていたこともあり、秀吉生前から家康とは昵懇の仲にあったともいわれる。

慶長5年(1600年)、家康に反抗する会津の上杉景勝・直江兼続らが軍備を増強していることを家康に密告する。
そしてこれらの報告もあって、家康は会津征伐を開始した。これが関ヶ原の戦いの契機となったともいわれる。義光は上杉景勝との対抗上から、東軍(徳川方)に味方した。しかし、家康が会津征伐に赴いている最中に、上杉氏と昵懇の関係にあった石田三成らが、反家康を名目にして上方で挙兵する。

家康はこれを知ると、義光と伊達政宗、結城秀康らに上杉景勝の牽制を命じて、上方に引き返した。

このため、上杉景勝は東軍に味方した周囲の敵対勢力を潰すために重臣の直江兼続に2万5,000余の軍勢を預けて、山形に侵攻させた。
これに対抗する最上義光軍は7,000余でしかなかったが、上杉軍に対して最上義光は2,000挺もの鉄砲を駆使して抗戦した。このため、上杉軍はわずか350名の最上兵が篭城する畑谷城を落すのに3日間を費やし、多数の死傷者を出した。

その上、山形城の要となる長谷堂城を攻撃するが、最上軍の強さに苦戦した(長谷堂城の戦い)。
このとき最上軍は前田慶次や剣豪の上泉と戦う。上泉を討ち取り丁重に葬った。

伊達政宗は義光に援軍を派遣したが、最上領で戦局を見守るに留まった。
もしこの時に伊達政宗が最上家を滅ぼして東北を制覇していたら、天下を取っていたかもしれませんね。
皮肉なことに正宗の母は義光の妹でこのときは最上家の元にいました。
結局、上杉軍は関ヶ原の戦いの敗報を聞いて長谷堂城の包囲を解き、米沢城に退却した。

西軍敗戦の報を聞いた義光は追撃戦を行うが、上杉軍の激しい防戦に遭い、直江兼続を取り逃がした。
この直江兼続の退却戦は後世までかたり継がれている。

しかし、庄内地方では逃げ遅れた上杉軍を潰滅させ、庄内地方奪還に成功した。

義光は上杉軍を撃退した功により、長谷堂城攻防戦後に攻め取った庄内地方などを加えられ、置賜郡を除く現在の山形県全土と由利郡(佐竹氏との領土交換により、当初所有していた雄勝郡・平鹿郡と引き換えた)計57万石を領し、出羽山形藩の初代藩主となった。
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2007年04月20日

明智光秀を裏切った細川藤孝 

細川 藤孝(ほそかわ ゆうさい)天文3年4月22日〔1534年6月3日〕 - 慶長15年8月20日〔1610年10月6日〕)は、戦国時代(室町時代後期)から江戸時代初頭の大名、戦国武将。歌人・茶人でもある。
藤孝は初め室町将軍家の足利義藤・足利義昭に仕え、後に織田信長、豊臣秀吉、徳川家康に仕え重用された。
丹後国十二万石の領主である。

有能な幕臣として活躍していたが、永禄8年(1565年)の永禄の変で13代将軍足利義輝が三好三人衆・松永久秀に暗殺されると、囚われの身となっていた義輝の弟・一乗院覚慶(後の15代足利義昭)を救出し、越前朝倉氏を頼った。還俗させた足利義昭を将軍職に就けるために明智光秀を通じて織田信長に接近し、義昭の後ろ盾となることを依頼した。
しかし、義昭は主君の信長によって幽閉の身となる。
明智光秀とは親友でもあった。織田軍団の中で唯一の文化人でもあったかさらなる親交を光秀と深めた。

しかし、その友情が壊れるときがきた。それは光秀が本能寺で信長を殺し秀吉と対決したときに、細川は行動をおこさなかったからだ。
ちなみに細川家嫡男の忠興の嫁は光秀の娘のガラシャである。

後に茶人の千利休とも親交をふかめる。
しかし、彼もまた切腹という非業の死を遂げるのである。

親交を深めた武将の非業の死をなまなまとみてきた藤孝はどうおもったのだろうか?
それでも生き延びて所領を増やし続けたので戦国武将として立派なものである。
子孫には総理大臣がいる。
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2007年04月14日

武田家を裏切った穴山信君の心中

穴山信君といえば武田信玄、武田勝頼につかえた名将である。

母は信玄の姉であり妻は信玄の娘だからまさに武田家親戚衆の重鎮である。
知行も甲斐の3分の1を与えられるほどで甲府にも屋敷をあたえられ、しばしば信玄や勝頼を補佐したのである。

1572年の信玄の西上作戦でも先陣をつとめさんざんと徳川家康を苦しめたのである。

しかし、信玄死後の長篠の敗戦後は勝頼やその取り巻きの跡部勝資、長坂光堅らと対立。

織田信長の甲州征伐の際に、かねてより内通していた徳川家康の進軍を先導した。この功により領土を安堵された。

このあと親戚集や重臣たちの裏切りにあった勝頼、しまいには親戚集筆頭の小山田信茂にまで裏切られる始末である。
勝頼一行は天目山で自害、ここで武田家滅亡とおもわれたが、うまいぐわいに存続したのである。

本能寺の変で信長が殺され、京都にいた徳川家康と穴山信君は伊賀越えの退却をおこなったのだが、このとき、信君は土民に殺害され家康のみ駿府にたどりついたのである。

家康は信君の長男を穴山家につがせ、5男を武田家につがして両家存続をなしとげたのである。

家康と江尻城主時代からのつきあいがあった信君の人脈の賜物である。




?Eホ????山本勘助や武田信玄の漫画を立ち読みしよう
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戦国最強の水軍大将 九鬼嘉隆

戦国時代に安宅船と呼ばれる軍船を率いて当時海軍大将は九鬼嘉隆である

信長に仕えて当時最強だった、毛利水軍を破ると、さらに巨大戦艦の建造にとりかかった。これをみた豊臣秀吉は最強の意味で「日本丸」となずけた

こうした九鬼嘉隆は織田、豊臣の時代を通して最強の水軍大将となったのである。

鉄甲船は織田信長の案であるが、それを設計して、建造したのは九鬼嘉隆である。まさに日本一の造船家でもあった。

ちなみに水軍という言葉は戦国時代にはなかったようだ。この時代は海賊、または警護衆とよばれていた。
彼らは商船などの護送を行い生計を立てていたようだ。
どの戦国大名とも等間隔の距離を保って自由な立場でいたようだ。

しかし、九鬼嘉隆だけは信長の家臣になり、発展していった。

しかし1600年の関が原の戦いで嘉隆は西軍に子の守隆は東軍についた。
東軍勝利ごは、守隆は加増を断り、父嘉隆の助命を願った。
しかし、嘉隆は自害して、その生涯を閉じたのである。

子の守隆は海のない丹波の綾部藩主となり、海ときりはなされたのである。
posted by しげる at 21:16| Comment(0) | TrackBack(0) | 戦国武将の手腕 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする