2008年02月01日

武田信玄の参謀、武田信繁

武田信繁(たけだ のぶしげ) 1525〜1561 

 甲斐・武田氏一族。左馬助の唐名"典厩、古典厩"の名で知られる。
父信虎の偏愛を受け、疎んじていた兄信玄より2男の彼に家督を譲ろうと考えていた程であった。
しかし父が信玄に追放された後も信玄と不和ではなく、むしろ慕って臣従し、文武両面に助けて、"武田の真の副将軍"として信玄の信頼厚く、家臣領民の信望も非常に高かった。

塩尻峠の戦いでは騎馬隊500騎で5000の兵をやぶるなど名武将ぶりも発揮している。

また信玄とともに甲州法度を定めている。まだ結束のなかった武田軍団の団結を作ったのは信繁である。山県、内藤、馬場、高坂といった武将たちの心服させれたのも信繁の力量の賜物であった。

信濃攻略等に活躍するが、越後・上杉氏との川中島の合戦において、主力不在の本陣を突かれた際、これを寡兵にて死守、戦死した。
命を懸けて兄であり主君を守った信繁は戦国随一の武将である。
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2007年12月28日

武田信玄の重臣、板垣信方

板垣といえば武田信虎、信玄の2代にわたって仕えた武田家の重鎮である。

甲府の板垣庄の名族である。
同僚の甘利とともに両職とよばれ、信玄を補佐した。

諏訪平定で大きな功績をあげて、信玄から諏訪の上原城で郡代として任命される。

また、軍師の山本勘助の登用している。

しかし、信玄のライバルである村上義清との戦いで上田原で討ち死にしている。このとき、甘利も討ち死にしている。

信玄にとってこの上田原の戦いは生涯でもっとも痛い敗北でもあった。

信方が上原城にいた頃は善政を行い領民からも慕われていた。また武田勝頼の母親も保護をし、武田家に尽くしていた信方の死は信玄にとって最大級の汚点でもあった。



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2007年11月18日

秀吉のブレーン黒田如水

黒田如水ころ官兵衛はあの竹中半兵衛の後継者の軍師です。
信長なきあと秀吉の相談役として秀吉に天下を取らせました。
さらに秀吉から100万の兵を動かせるのは官兵衛だけだといわれたほどでもあります。

しかぢ43の若さで隠居しました。それは秀吉が黒田の才覚をおそれたからです。現代のサラリーマンの世界でもあることですが並外れた実力者はトップから恐れられます。
かくして如水は家督を息子の長政にゆずりました。
そして幕末まで家をまもりました。

”決断は瞬時にせよ”と優柔不断の息子の長政に最後にいいきかせた。頭の切れる軍師であった。

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2007年10月28日

不運の名軍師 真田幸隆

武田信玄の軍師で有名なのは、山本勘助ですが、真田幸隆も謀略にすぐれた名軍師でした。

山本勘助の存在をうたがう説もあります。真田幸隆が山本勘助のモデルとう学者もいるぐらいですから。

よく真田幸隆は孫子の兵法をつかいました。
戦わずして勝つという外交戦を得意としました。

当時の甲斐の国は隣国の信濃の半分ぐらいの国力しかありませんでしたが、これを攻略できたのは勘助?幸隆の外交戦が功をそうしてなしえたものです。
スパイを敵国に送り内部かくらんや、寝返る武将がいれば甲州金をもちいて買収しました。

信玄のころは幸隆も実力を発揮しましたが、勝頼の時代には、よそ者(甲斐国出身者以外)を受け付けない家臣団と意見があわず誰も耳を傾けてくれませんでした。

孫はあの日の本一の兵の真田幸村です。




?Eホ????ここで山本勘助のマンガをさがそう
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2007年10月27日

恩義と友情の大谷吉継

近江の国に生まれ秀吉に召抱えられる

同郷の石田三成とはともに助け合いながら奉公していった

以後秀吉の側近として若くして敦賀6万石の城主となる。
朝鮮の役では軍奉行をつとめる。

しかしこのときすでに難病におかされ目が不自由になっていた。
役目辞退を秀吉に申し込んだが却下され逆に励まされたりした。
まさに心で人をつかんでいった秀吉の力量である。

やがて秀吉亡き後、関が原の役がおきる。
東軍側からの好待遇を断り負けると知りながら、豊臣方の西軍についたのである。
このときのリーダー的存在は親友の石田三成だった。

恩義と友情に報い負けると知りながら参陣した大谷吉継、しかし、合戦のなか味方の小早川の裏切りにあり、陣中で切腹。

吉継の意思は息子の吉勝にうけつがれ、かれもまた、大阪の陣で勇ましく戦って戦死。

参謀として負けると分かりながら西軍についた吉継ですが、現世でも英雄としてその名を残しています。
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2007年09月13日

今川家の軍師 太源雪斎

 駿河・今川氏重臣。禅僧で駿河・臨済寺開祖。
海道一の弓取りといわれた今川義元の教育係を務め、その家督相続(花倉の乱)に貢献する。

義元が当主となってからは軍師として諸戦に活躍、1548年小豆坂の戦いでは義元の将として尾張・織田信秀を敗り、捕まっていた松平元康を助けた。松平元康といえば後の徳川家康である。

朝廷からも賜り物をいただくほど僧侶とりても権力をしめしていった。

また、外交面にも力を発揮、武田、北条との甲相駿三国同盟“善徳寺の会盟”を成立させる。

義元の片腕としてその繁栄を支えるが、60歳で没。

もし雪斎が生きていれば桶狭間の敗北はなかったであろうとおもう。なぜなら桶狭間は今川軍の油断がうんだ敗北だからである。
軍略にすぐれた雪斎ならば、このような失態がなく歴史は大きく変わっていたことでしょう。
また後に幕府を開いた徳川家康の恩人であり師でもあります。

歴史の裏で大きく活躍した僧侶であり軍人でもあった雪斎であった。
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真田の祖 真田幸隆

信濃の海野氏出身。
海野氏は清和天皇末流が信濃に土着し豪族化したもの。
1541年甲斐・武田、信濃・村上、諏訪氏らの連合軍に敗れ、上野・羽尾幸全の下に逃れ、その後、上野・長野業正を頼った。
長野業正といえば篭城戦のプロである。おそらくここで軍略をまなんだのであろう。

1543年武田氏に仕え、信濃・岩尾城代となった。
このとき山本勘助と出会う。

武田氏の軍師格として、時には謀略を駆使して戦いを援けた。
智謀にすぐれ戦わずして勝つという孫子の兵法ももちいた。

信玄生涯一度の敗戦上田原の戦いにおいても、味方が潰走する中一歩も退かず応戦したという。

信玄死後、後を追うように信濃・砥石城で没。63歳。

孫はあの有名な真田幸村である。
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2007年05月11日

忠義の将 石田三成

石田三成とは関が原で有名な武将です。

敗軍の将として有名ですが、実力は戦国武将として随一でしょう。

秀吉の長浜時代に仕えて、同僚に加藤清正、福島正則ら武官の将がいる。

佐和山城時代には智勇兼備の武将の島左近を家臣にしている。
また、このとき大谷吉継や直江兼続らと親交を深めている一方で同僚の加藤や福島らと対立する。

しかし、前田利家の死後、徳川家康の天下獲りが始まり、関が原の戦いに発展する。

三成は親友の直江兼続に密かに挙兵の合図を送り東北で東軍と戦わせた。

また、大谷吉継も説得し、西軍に引き込んだ。吉継は豊臣恩顧の武将で不利と知りながら西軍に加わった。

しかし、戦いは一日で終わった。西軍の秀吉の甥にあたる小早川秀秋隊が大谷吉継の陣におそいかかるのである。
このとき吉継は自害。

また三成本隊も島左近・蒲生郷舎の奮戦もあったが敗北。
両家臣も命を落とすのである。

このあと三成は京都で処刑される。

友情厚き人にかこまれた三成であったが、天下の名将の謀略にはかなわなかった。それどころか、親友の命までなくしてしまった三成、不運の武将であった。
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