2008年02月23日

関が原の戦いを1日で終結させた小早川秀秋

父は羽柴秀吉正室・北政所の兄。3歳で秀吉の養子となる。秀吉の親戚で太閤になれるはずだったが?

秀吉に実子秀頼が生まれると、翌年安芸・毛利氏臣小早川氏に養子に出された。つまり追い出されたのである。

筑前52万石を領有。慶長の役では総大将として出陣している。
この時朝鮮で女や子供までも大量に殺害して秀吉から叱責されている。

関ヶ原の合戦では西軍として参陣した。このときに西軍を裏切り天下の名将の大谷吉継の陣に攻め込んで討ち取った。

これを機に西軍がどんどん裏切りをして、関が原の合戦は1日で終わった。

戦後、備前、美作に50万石を得たが、まもなく亡くなった。嗣子なく小早川宗家は断絶。

この後小早川秀秋は裏切り者と後世にかたり継がれますが、名将には違いありません。

なぜなら天下分け目の合戦を1日で終わらせ戦乱から農民や一般市民を守ったのですから。
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2008年02月12日

徳川四天王 井伊直政

井伊直政(いい なおまさ) 1561生〜1602没 

 父の死後、難を逃れて隠れ住んでいたが、やがて三河・松平元康に近侍する。
相模・北条氏との和平交渉の功にて、滅亡した甲斐・武田旧臣を配下に加えて甲州流軍式を取り入れ、赤の軍装で統一、“井伊の赤備え”“井伊の赤鬼”と呼ばれる。トンボきりの本多忠勝とはよきライバルでもあった。
長久手の合戦には先鋒として参加し豊臣秀吉軍と戦う。

関ヶ原の合戦においても活躍するが、こののち没した。

大阪夏の陣まで生きていたなら同じ甲州流の赤備えの真田軍との歴史的な合戦をしたでしゅう。惜しまれる死であった。
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2007年12月29日

秀吉を恨んだ猛将 佐々成政

佐々成政は信長亡きあとも最後まで秀吉に反抗した武将でした。

前田利家とともに柴田勝家の与力となり数々の武功をあげました。

やがて富山城主になります。

この時に秀吉と家康の戦いの”小牧長久手の戦い”がおきます。

69歳の成政は家康に仕えるべく家康に会いに行きます。
この時にとった浜松城までのルートは日本アルプスの立山越えでした。
時の登山史上初の冬山越えでしょう。

しかし浜松についた頃にはもうすでに講和されていました。

秀吉の富山攻めで負け自害せずに、しかも命乞いをしました。
朝鮮の役で活躍し肥後一国を得ましたが、秀吉打倒のための軍資金確保のために大検地を行った結果大規模な農民一揆に合い、その責をとわれて、73才で切腹しました。この時秀吉の居城の大阪を眺めて腹を切りました。

名家あがりの成政にとって農民上がりの秀吉が出世するのが彼のプライドを傷つけたのでしょう。

300年後の帝国陸軍が行った八甲田山の雪中行軍は佐々成政の行った立山越えを故事としたもです。

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2007年11月18日

甲斐の甲州法度と武田信繁

武田信繁といえば武田信玄の弟で、信玄が父親を追放してからも信玄に忠節をつくしました。

主な活躍としては、甲州法度を定めたことです。
この法律は君主も適用されるという当時では珍しい法度でした。
甲斐の国を治めた信玄ですが、家臣の忠誠心も薄かった当時には画期的な発想でした。

また中途採用も積極的におこない有能な人材の確保もしました。
当時はよそ者をうけつけない武田でしたが、これ以降は、山本勘助や真田幸隆といった有能な武将が武田にくわわりました。
同郷も者同士を同じグループにわけ、また同じ性質も者を同じグループ分けした働きやすい環境を整え、また、特殊技能者には固定給の他に特別手当を支給しました。
当時では画期的な発想でした。

その政治的にすぐれた信繁でしたが、1561年の川中島の合戦で戦死しました。

武田信繁こそ最強の組織のナンバー2でしたね
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2007年11月16日

天下を狙う織田信長の戦略

1560年に東海地区の英雄、今川義元を討ち取った信長は、天下人の野望を抱いた。

他にも天下の野望をいだいた、武田、上杉、島津、伊達もいたが、その戦略眼は他と違っていた。
それは現代でも通用する流通の支配であった。

まずは将軍の足利義昭を擁立して、副将軍や管領といった役職には目もくれずに、堺や草津、大津を支配した。これらは流通の要となる都市である。

これによし中国地方と東海、北陸の流通を抑えたのである。
まさに合理主義者であった。

それから鉄砲に注目して、長篠の戦いでは、最強の騎馬軍団を誇る武田家に圧倒している。

南蛮人とも積極的に接して、フロイスやオルガンチーノから各国の軍事情報や、造船技術といったものを吸収した。

鉄板で覆われた軍船をつくり、九鬼嘉隆水軍が毛利の村上水軍に圧倒している。

近代技術と合理主義で毛利、武田を破った信長は近代国家のさきがけでもあった。
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2007年11月15日

英雄の晩年 北條早雲 享年88歳の生き様

80歳を過ぎた早雲だが、名門の三浦氏を滅ぼして伊豆と相模の2カ国を制圧した。長男の氏綱の家督を譲ってからも裏で風間の小太郎とともに裏で北條家を支えた。

下克上を駆使して戦国の世の口火を切った早雲だが、88歳で伊豆の韮山城でその生涯をとじた。

3代目の氏康まで発展した北條家だが5代目の時には、豊臣秀吉に敗れて滅んでいる。
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2007年10月11日

知略にすぐれた甕割の柴田勝家

織田信長の家臣であり猛将でしられている柴田勝家

しかし思いのほか身の丈は低くずっしりとした体系であったらしい。
また戦争では知略をもってして敵を攻略していった。

勝家が長光寺城主の時、六角軍の城攻めにあった。
勝家の長光寺城には水源がなくみずは背後の谷から汲んでいた。
それをしっていた六角軍は水の欠乏による長期戦をこころみた。

もはやこれまでかと思った勝家は城の水をすべて家臣に飲ませ、甕を割り白米をいれ、それを城を囲んでいる六角軍に水が流れるように、ほかの甕に移し変えた。何回も繰り返したので六角軍は長光寺城にはあんなに水があるんだなと思って退散した。

これが甕割りの柴田の所以である。


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2007年10月10日

武田の猛将 山県昌景

山県昌景といえば馬場信房、原昌胤とならぶ武田猛将である。
飯富の赤備えでも有名でもある。
兄は飯富虎昌である。

1565年に兄虎昌が武田信玄の嫡子の義信と共謀して、謀反事件に加担した。
しかし、昌景は兄に加担せずに「御大将に弓を引く謀反を企てるとはゆるせない、義信公はまだ若いので、今回の事件は兄、虎昌一人の責任である」と信玄に知らせ、密書をわたした。
かくして、兄は処刑され義信は幽閉先で自害をした。

この後に山県姓を信玄からもらった。

信玄死後に家督をついだ武田勝頼とは不和となり、1575年の有名な長篠の戦いで壮絶な戦死をするのである。

このとき両腕を鉄砲で撃たれながらも口で采配をくわえて19回の突撃を繰り返したのである。
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2007年09月18日

天下にもっとも近かった大名 朝倉義景

 越前・朝倉氏最期の当主。
溺愛する息子を失い、国政に対する気力を無くしていき、一方で学問や芸能に深くのめり込んでいった。

都を追われた将軍足利義昭が頼って来た際、上洛を促されるがこの機会を活かさず、義昭に見限られる。このときの家臣に明智光秀がいたが信長に裏切ってしまった。

その義昭を奉じて上洛した尾張・織田氏に攻められるが、盟友北近江・浅井氏の来援に助けられ危機は逃れた。
浅井氏の浅井長政の妻は信長の妹のお市である。

しかし、その後も自ら積極的に出ることはあまりなく、浅井氏の要請に対し家臣に軍を率いらせるのみで、士気は振るわなかった。
その為、織田方との決戦である姉川の合戦においては、数に劣る三河・徳川軍相手に敗走してしまう。
このとき重臣でかつ勇猛だった朝倉宗滴を失う。

最期は一族景鏡、重臣魚住景固らに迫られ、自害して果てた。
人望がなく家臣や親族に見限られた大名だった。

この朝倉家の一条谷の城は山中にありながら城下街は文化的でなかなか賑わったそうです。
文化人だった朝倉義景は戦国に生まれなかったら名領主だったでしょう。
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2007年08月30日

猛将 福島正則

賤ヶ岳7本槍の筆頭であり、また母親が秀吉の妹でもあった。

しかし同僚の石田三成と対立して、関が原の戦いでは徳川方についた。

こののち正則は広島城主となるが農民の反発にあってしまう
それは大規模な兵農分離と検地であった。

もともとこの広島は毛利の領地でよき政治をしていたからである。
さらに正則の鼻そぎといった行為がさらなる農民の反発をかった。

このあと信濃川中島に厳封となり世をさる。

高い戦略眼をもっていたがその神経質な性格がアダとなったのでしょう。
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2007年08月22日

軍師 後藤又兵衛

永禄3年4月10日(1560年5月5日) - 元和元年5月6日(1615年6月2日))は黒田孝高、豊臣氏の家臣。

幼少のころから黒田家に仕えて数々の武功をあげる。黒田二十四騎や黒田八虎の一人に数えられた。

関が原の戦いで武功をあげる。このとき1万6000石の所領をたまわるが、黒田長政と折り合いが悪くなり浪人生活を送るのである。

黒田長政の幼少時代の教育係は後藤又兵衛であった。

長政は又兵衛の天才的能力がおそろしかったそうだ。武芸や戦術、戦略にすぐれ、ときには野生的な勘で戦いを勝利にみちびいたりもしていた。

しかし、又兵衛の浪人生活がおわる時がきた。大阪の陣である。このときに大阪方の浪人衆として真田信繁とともに指揮をとるのである。
夏の陣で河内「道明寺の戦い」で徳川方の奥田忠次らを討ち取り、多勢に無勢ながらも奮戦した。

しかし伊達政宗の家臣片倉重長の鉄砲隊に銃撃され、腰を撃たれて歩行不能となった又兵衛は部下に介錯させた。

戦国末期最強の軍師、後藤又兵衛の最後であった。
このあと真田信繁も家康本隊に突っ込み、首をとられている。

おそらく又兵衛は自分の育てた長政との対決を望んでいたでしょう。しかし、それもかなわぬままでした。
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2007年08月10日

羽柴秀吉の黒子 竹中半兵衛

軍師 竹中半兵衛
わずかの手勢で堕落した主の城(稲葉山城)を制圧。
のちに木下籐吉郎の与力となる。
蜂須賀小六とともに秀吉を補佐。
たぐいまれな軍略を元に秀吉を出世させた。秀吉にない軍略の孫子に明るかった。
備中高松城攻め前に陣中で病死。
まだ40前であった。こののち黒田如水が半兵衛のあとをついだ。

もし長生きしたなら関が原で西軍が勝利したこでしょう。なんせ大垣は半兵衛の故郷だから。質素な生活をしたことから、まさに武士の鑑である軍師である。
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[著者] 水野 実
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2007年07月19日

信仰篤きキリシタン大名 高山右近

摂津高山城主・キリシタン大名として中世のヨーロッパでもその名がしられている大名といえば高山右近である。

自領の摂津高槻で天主堂やセミナリオを建設、宣教師や修道士をまねいて、キリスト教をひろめたのである。

高槻の領民の半分以上がキリスト教になり、ヨーロッパの教会にもひけをとらないぐらいの教会を作ったとして、ヨーロッパ人を感動させた。
また名もない領民の葬儀で棺をかついだりした。

しかし、本能寺の変で山崎の合戦には世話になっている明智光秀をうらぎり秀吉軍の先鋒として戦っている。
この功で明石城主となった。セミナリオも明石に移っている。
高槻城の城主だった和田惟長をクーデターで破ったり、主君の荒木村重を裏切ったりと戦国武将独特の資質もそなわっていた。
しかし、領民からはしたしまれていた。


秀吉の禁教令に従わずに「全世界をあたえられても、私の魂の引き換えには出来ません」とかたくなに拒んだ。
数々の侮辱を受けながらも娘の嫁ぎ先の前田利家に保護を受けて生活と保った。

徳川幕府の禁教令のときは国外追放となり、マニラに向かった。
このときスペインの総督から大歓迎をうけた。
海外にも名が知れ渡った高山右近、戦国の権力者にも従わずにキリシタンとして生きた武将は戦国一のキリシタン大名であった。
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2007年06月26日

大局を見あまった浅井長政

浅井氏は長政の祖父の亮政の代に守護の京極家の内紛に乗じて勢力圏を獲得した一族である。このときから越前の朝倉家と親交をふかめていった。

父の久政が六角家との戦いに敗れると子の長政が家督をついだ。

やがて政略結婚で信長の妹のお市と結婚する。
夫婦なかがよく3女と1男がうまれた。

信長の援助もうけて勢力をふやしていった。

しかし、信長が同盟関係のある浅井家を攻撃するのである。

ここで長政が最大の失敗をおかしてしまうのである。
なんとあきらかに負けると分かってる浅井家についてしまうのである。

金ヶ崎城に布陣していた信長がこのことを知ったのは、なんと長政の妻でり妹のお市からの機転の利いた暗号であった。このとき上下に紐でくくられた小豆が送られた。

大局を誤った長政は妻にも裏切られたのである。

挟み撃ちという最大の危機を秀吉のしんがりによって、命からがら逃げ帰った、信長は姉川の合戦で浅井・朝倉連合軍をやぶり。

ついには、長政の居城の小谷城をせめるのである。

最後の突撃のあと、長政は重臣の赤尾清綱の家で自害をする。
まだ29歳であった。

長政の一人の娘は3代目の征夷大将軍の徳川家光である。
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2008年07月19日

山本勘助の親友 高坂昌信

信玄の元では、はじめ使番(当時はただの伝令役ではなく当主の側近的意味合いが強く、幹部候補生である)として仕えた。
このときは美男子とあって信玄にかわいがられた。

使番として戦功をあげて信玄の信頼を得ることになる。
信玄の信濃平定戦における信濃小岩城攻略戦では、1番乗りの功績を挙げた。そのため天文20年(1551年)に騎馬100騎持の侍大将に任じられた。
天文21年(1552年)には150騎持に加増され、春日弾正忠と名乗った。天文22年(1553年)には小諸城代、永禄3年(1560年)には海津城代になって上杉氏に対する最前線の守将を任されると同時に新領地の安定に尽力した。

百姓出身とあって周囲の家臣たちとはなじめなかったが、同じ境遇の山本勘助とは仲がよかったみたいだ。
仲が良いといっても年が離れているのでよき先輩でもあったのであろう。

永禄4年(1561年)の第4次川中島の戦いでは、山本勘助の作戦であるキツツキ戦法の別働隊を指揮していた。
しかし、勘助の策が見破られ昌信が攻めた謙信の本陣はすでみ信玄の本陣と戦闘をしていた。
早急に背後から謙信をついてなんとか、信玄の命だけは守った。
しかし、戦いの犠牲は大きかったようだ。
武田の大将格の武田信繁が討ち死にし、親友の山本勘助の討ち死にしてしまった。

信玄を救った戦功により信玄から信濃の名族・高坂(香坂)氏の名跡を継ぐことを許されて、高坂昌信と改名する。
posted by しげる at 12:59| Comment(0) | TrackBack(0) | 武将のその時 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする