2007年12月29日

秀吉を恨んだ猛将 佐々成政

佐々成政は信長亡きあとも最後まで秀吉に反抗した武将でした。

前田利家とともに柴田勝家の与力となり数々の武功をあげました。

やがて富山城主になります。

この時に秀吉と家康の戦いの”小牧長久手の戦い”がおきます。

69歳の成政は家康に仕えるべく家康に会いに行きます。
この時にとった浜松城までのルートは日本アルプスの立山越えでした。
時の登山史上初の冬山越えでしょう。

しかし浜松についた頃にはもうすでに講和されていました。

秀吉の富山攻めで負け自害せずに、しかも命乞いをしました。
朝鮮の役で活躍し肥後一国を得ましたが、秀吉打倒のための軍資金確保のために大検地を行った結果大規模な農民一揆に合い、その責をとわれて、73才で切腹しました。この時秀吉の居城の大阪を眺めて腹を切りました。

名家あがりの成政にとって農民上がりの秀吉が出世するのが彼のプライドを傷つけたのでしょう。

300年後の帝国陸軍が行った八甲田山の雪中行軍は佐々成政の行った立山越えを故事としたもです。

posted by しげる at 03:43| Comment(0) | TrackBack(3) | 武将のその時 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年12月28日

武田信玄の重臣、板垣信方

板垣といえば武田信虎、信玄の2代にわたって仕えた武田家の重鎮である。

甲府の板垣庄の名族である。
同僚の甘利とともに両職とよばれ、信玄を補佐した。

諏訪平定で大きな功績をあげて、信玄から諏訪の上原城で郡代として任命される。

また、軍師の山本勘助の登用している。

しかし、信玄のライバルである村上義清との戦いで上田原で討ち死にしている。このとき、甘利も討ち死にしている。

信玄にとってこの上田原の戦いは生涯でもっとも痛い敗北でもあった。

信方が上原城にいた頃は善政を行い領民からも慕われていた。また武田勝頼の母親も保護をし、武田家に尽くしていた信方の死は信玄にとって最大級の汚点でもあった。



posted by しげる at 10:40| Comment(0) | TrackBack(1) | 参謀の生き様 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする