2007年11月18日

秀吉のブレーン黒田如水

黒田如水ころ官兵衛はあの竹中半兵衛の後継者の軍師です。
信長なきあと秀吉の相談役として秀吉に天下を取らせました。
さらに秀吉から100万の兵を動かせるのは官兵衛だけだといわれたほどでもあります。

しかぢ43の若さで隠居しました。それは秀吉が黒田の才覚をおそれたからです。現代のサラリーマンの世界でもあることですが並外れた実力者はトップから恐れられます。
かくして如水は家督を息子の長政にゆずりました。
そして幕末まで家をまもりました。

”決断は瞬時にせよ”と優柔不断の息子の長政に最後にいいきかせた。頭の切れる軍師であった。

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[タイトル] 史記〈2〉乱世の群像
[著者] 司馬 遷
[種類] 文庫
[発売日] 2005-11
[出版社] 徳間書店

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posted by しげる at 15:17| Comment(1) | TrackBack(0) | 参謀の生き様 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

甲斐の甲州法度と武田信繁

武田信繁といえば武田信玄の弟で、信玄が父親を追放してからも信玄に忠節をつくしました。

主な活躍としては、甲州法度を定めたことです。
この法律は君主も適用されるという当時では珍しい法度でした。
甲斐の国を治めた信玄ですが、家臣の忠誠心も薄かった当時には画期的な発想でした。

また中途採用も積極的におこない有能な人材の確保もしました。
当時はよそ者をうけつけない武田でしたが、これ以降は、山本勘助や真田幸隆といった有能な武将が武田にくわわりました。
同郷も者同士を同じグループにわけ、また同じ性質も者を同じグループ分けした働きやすい環境を整え、また、特殊技能者には固定給の他に特別手当を支給しました。
当時では画期的な発想でした。

その政治的にすぐれた信繁でしたが、1561年の川中島の合戦で戦死しました。

武田信繁こそ最強の組織のナンバー2でしたね
posted by しげる at 07:31| Comment(0) | TrackBack(1) | 武将のその時 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年11月16日

天下を狙う織田信長の戦略

1560年に東海地区の英雄、今川義元を討ち取った信長は、天下人の野望を抱いた。

他にも天下の野望をいだいた、武田、上杉、島津、伊達もいたが、その戦略眼は他と違っていた。
それは現代でも通用する流通の支配であった。

まずは将軍の足利義昭を擁立して、副将軍や管領といった役職には目もくれずに、堺や草津、大津を支配した。これらは流通の要となる都市である。

これによし中国地方と東海、北陸の流通を抑えたのである。
まさに合理主義者であった。

それから鉄砲に注目して、長篠の戦いでは、最強の騎馬軍団を誇る武田家に圧倒している。

南蛮人とも積極的に接して、フロイスやオルガンチーノから各国の軍事情報や、造船技術といったものを吸収した。

鉄板で覆われた軍船をつくり、九鬼嘉隆水軍が毛利の村上水軍に圧倒している。

近代技術と合理主義で毛利、武田を破った信長は近代国家のさきがけでもあった。
posted by しげる at 00:07| Comment(0) | TrackBack(0) | 武将のその時 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年11月15日

英雄の晩年 北條早雲 享年88歳の生き様

80歳を過ぎた早雲だが、名門の三浦氏を滅ぼして伊豆と相模の2カ国を制圧した。長男の氏綱の家督を譲ってからも裏で風間の小太郎とともに裏で北條家を支えた。

下克上を駆使して戦国の世の口火を切った早雲だが、88歳で伊豆の韮山城でその生涯をとじた。

3代目の氏康まで発展した北條家だが5代目の時には、豊臣秀吉に敗れて滅んでいる。
posted by しげる at 13:58| Comment(0) | TrackBack(0) | 武将のその時 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする