2007年10月28日

不運の名軍師 真田幸隆

武田信玄の軍師で有名なのは、山本勘助ですが、真田幸隆も謀略にすぐれた名軍師でした。

山本勘助の存在をうたがう説もあります。真田幸隆が山本勘助のモデルとう学者もいるぐらいですから。

よく真田幸隆は孫子の兵法をつかいました。
戦わずして勝つという外交戦を得意としました。

当時の甲斐の国は隣国の信濃の半分ぐらいの国力しかありませんでしたが、これを攻略できたのは勘助?幸隆の外交戦が功をそうしてなしえたものです。
スパイを敵国に送り内部かくらんや、寝返る武将がいれば甲州金をもちいて買収しました。

信玄のころは幸隆も実力を発揮しましたが、勝頼の時代には、よそ者(甲斐国出身者以外)を受け付けない家臣団と意見があわず誰も耳を傾けてくれませんでした。

孫はあの日の本一の兵の真田幸村です。




?Eホ????ここで山本勘助のマンガをさがそう
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2007年10月27日

恩義と友情の大谷吉継

近江の国に生まれ秀吉に召抱えられる

同郷の石田三成とはともに助け合いながら奉公していった

以後秀吉の側近として若くして敦賀6万石の城主となる。
朝鮮の役では軍奉行をつとめる。

しかしこのときすでに難病におかされ目が不自由になっていた。
役目辞退を秀吉に申し込んだが却下され逆に励まされたりした。
まさに心で人をつかんでいった秀吉の力量である。

やがて秀吉亡き後、関が原の役がおきる。
東軍側からの好待遇を断り負けると知りながら、豊臣方の西軍についたのである。
このときのリーダー的存在は親友の石田三成だった。

恩義と友情に報い負けると知りながら参陣した大谷吉継、しかし、合戦のなか味方の小早川の裏切りにあり、陣中で切腹。

吉継の意思は息子の吉勝にうけつがれ、かれもまた、大阪の陣で勇ましく戦って戦死。

参謀として負けると分かりながら西軍についた吉継ですが、現世でも英雄としてその名を残しています。
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2007年10月11日

知略にすぐれた甕割の柴田勝家

織田信長の家臣であり猛将でしられている柴田勝家

しかし思いのほか身の丈は低くずっしりとした体系であったらしい。
また戦争では知略をもってして敵を攻略していった。

勝家が長光寺城主の時、六角軍の城攻めにあった。
勝家の長光寺城には水源がなくみずは背後の谷から汲んでいた。
それをしっていた六角軍は水の欠乏による長期戦をこころみた。

もはやこれまでかと思った勝家は城の水をすべて家臣に飲ませ、甕を割り白米をいれ、それを城を囲んでいる六角軍に水が流れるように、ほかの甕に移し変えた。何回も繰り返したので六角軍は長光寺城にはあんなに水があるんだなと思って退散した。

これが甕割りの柴田の所以である。


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2007年10月10日

武田の猛将 山県昌景

山県昌景といえば馬場信房、原昌胤とならぶ武田猛将である。
飯富の赤備えでも有名でもある。
兄は飯富虎昌である。

1565年に兄虎昌が武田信玄の嫡子の義信と共謀して、謀反事件に加担した。
しかし、昌景は兄に加担せずに「御大将に弓を引く謀反を企てるとはゆるせない、義信公はまだ若いので、今回の事件は兄、虎昌一人の責任である」と信玄に知らせ、密書をわたした。
かくして、兄は処刑され義信は幽閉先で自害をした。

この後に山県姓を信玄からもらった。

信玄死後に家督をついだ武田勝頼とは不和となり、1575年の有名な長篠の戦いで壮絶な戦死をするのである。

このとき両腕を鉄砲で撃たれながらも口で采配をくわえて19回の突撃を繰り返したのである。
posted by しげる at 16:06| Comment(0) | TrackBack(0) | 武将のその時 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする