2007年08月30日

猛将 福島正則

賤ヶ岳7本槍の筆頭であり、また母親が秀吉の妹でもあった。

しかし同僚の石田三成と対立して、関が原の戦いでは徳川方についた。

こののち正則は広島城主となるが農民の反発にあってしまう
それは大規模な兵農分離と検地であった。

もともとこの広島は毛利の領地でよき政治をしていたからである。
さらに正則の鼻そぎといった行為がさらなる農民の反発をかった。

このあと信濃川中島に厳封となり世をさる。

高い戦略眼をもっていたがその神経質な性格がアダとなったのでしょう。
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2007年08月22日

軍師 後藤又兵衛

永禄3年4月10日(1560年5月5日) - 元和元年5月6日(1615年6月2日))は黒田孝高、豊臣氏の家臣。

幼少のころから黒田家に仕えて数々の武功をあげる。黒田二十四騎や黒田八虎の一人に数えられた。

関が原の戦いで武功をあげる。このとき1万6000石の所領をたまわるが、黒田長政と折り合いが悪くなり浪人生活を送るのである。

黒田長政の幼少時代の教育係は後藤又兵衛であった。

長政は又兵衛の天才的能力がおそろしかったそうだ。武芸や戦術、戦略にすぐれ、ときには野生的な勘で戦いを勝利にみちびいたりもしていた。

しかし、又兵衛の浪人生活がおわる時がきた。大阪の陣である。このときに大阪方の浪人衆として真田信繁とともに指揮をとるのである。
夏の陣で河内「道明寺の戦い」で徳川方の奥田忠次らを討ち取り、多勢に無勢ながらも奮戦した。

しかし伊達政宗の家臣片倉重長の鉄砲隊に銃撃され、腰を撃たれて歩行不能となった又兵衛は部下に介錯させた。

戦国末期最強の軍師、後藤又兵衛の最後であった。
このあと真田信繁も家康本隊に突っ込み、首をとられている。

おそらく又兵衛は自分の育てた長政との対決を望んでいたでしょう。しかし、それもかなわぬままでした。
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2007年08月10日

羽柴秀吉の黒子 竹中半兵衛

軍師 竹中半兵衛
わずかの手勢で堕落した主の城(稲葉山城)を制圧。
のちに木下籐吉郎の与力となる。
蜂須賀小六とともに秀吉を補佐。
たぐいまれな軍略を元に秀吉を出世させた。秀吉にない軍略の孫子に明るかった。
備中高松城攻め前に陣中で病死。
まだ40前であった。こののち黒田如水が半兵衛のあとをついだ。

もし長生きしたなら関が原で西軍が勝利したこでしょう。なんせ大垣は半兵衛の故郷だから。質素な生活をしたことから、まさに武士の鑑である軍師である。
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[著者] 水野 実
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[発売日] 2003-06
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没落から復活した立花宗茂

 立花道雪の婿養子となって立花城に入り、厳しい教育を受ける。
立花道雪とは、鬼道雪の名でしられる猛将である。

羽柴秀吉の九州征伐後、羽柴の姓を与えられ大友氏から独立、筑後柳川13万2千石に封ぜられた。

朝鮮出征に活躍し、加藤清正を救う等して武名を高める。

関ヶ原の戦いでは西軍につき、西軍敗走後、居城に籠もるが降伏し改易される。
この時に乞食生活をしている。まさに転落である。
しかし、宗茂の人柄を惜しむ声が多く、3年後に奥州棚倉1万石に返り咲き、大坂の陣で戦功をあげ、旧領柳河11万9千石を回復する。

島原の乱では有馬城を攻略した。

宗茂の鬼嫁も有名ですね。
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2007年08月01日

戦国の名軍師たち 

1 山本勘助

なぞに包まれた知勇兼備の武将
全国を武者修行して青年期をすごす。
板垣信方の推挙で武田信玄に仕える。

上田原の戦いで村上義清を破り武田家を勝利に導く。しかしこの時板垣は村上軍に討ち取られている。

築城や軍略にすぐれた勘助だったが、越後の龍とよばれる上杉謙信には、かなわなかった。
1601年の川中島の戦いで高坂弾正の別働隊をもちいて上杉軍を挟みうちするきつつき戦法を用いたが、謙信にこの策が見破られて本陣が危機状態になってしまった。

責任を感じた勘助は敵陣に突入して、越後の侍大将の鬼小島に首をとられる。この合戦で鬼小島も重症を追いこのあと死亡する。

勘助の首は部下たちが敵から取り戻して、小さな小川で首と胴をくっつけることができた。
この橋は胴会橋と呼ばれています。
またこの合戦で武田信玄の弟の武田信繁も討ち死にとう大損害をくらいました。

2 竹中半兵衛
36歳の若さでなくなった羽柴秀吉の軍師。
日本の張良、諸葛亮ともよばれる名軍師である。

最初は美濃の斉藤家に仕えていたが、君主の龍興がどうしょうもないので、稲葉山城をのっとる。しかし、すぐ返還してしまう。
織田信長にその才を買われて仕官するようヘッドハンティングがきたが断る。
しかし、羽柴秀吉の三顧の礼で秀吉に仕官することとなり、軍師の竹中半兵衛の人生がスタートするのである。

秀吉にしたがい近江攻略戦で戦功をあげる。
姉川の合戦で浅井・朝倉連合軍を破り、横山城防衛戦では秀吉の弟の小一郎と浅井軍と一揆軍をわずかな兵でやぶるのである。

ついで小谷城攻略戦で浅井家を滅ぼし、長篠の戦いでは武田の騎馬軍団を鉄砲でやぶるのである。

しかし、中国ちほうの別所長治の守る三木城攻略の間に陣中で病死してしまうのである。
そして秀吉の天下獲りの野望の参謀は黒田官兵衛に引き継がれるのである。
posted by しげる at 23:27| Comment(1) | TrackBack(0) | 戦国武将たち | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする