2007年05月11日

忠義の将 石田三成

石田三成とは関が原で有名な武将です。

敗軍の将として有名ですが、実力は戦国武将として随一でしょう。

秀吉の長浜時代に仕えて、同僚に加藤清正、福島正則ら武官の将がいる。

佐和山城時代には智勇兼備の武将の島左近を家臣にしている。
また、このとき大谷吉継や直江兼続らと親交を深めている一方で同僚の加藤や福島らと対立する。

しかし、前田利家の死後、徳川家康の天下獲りが始まり、関が原の戦いに発展する。

三成は親友の直江兼続に密かに挙兵の合図を送り東北で東軍と戦わせた。

また、大谷吉継も説得し、西軍に引き込んだ。吉継は豊臣恩顧の武将で不利と知りながら西軍に加わった。

しかし、戦いは一日で終わった。西軍の秀吉の甥にあたる小早川秀秋隊が大谷吉継の陣におそいかかるのである。
このとき吉継は自害。

また三成本隊も島左近・蒲生郷舎の奮戦もあったが敗北。
両家臣も命を落とすのである。

このあと三成は京都で処刑される。

友情厚き人にかこまれた三成であったが、天下の名将の謀略にはかなわなかった。それどころか、親友の命までなくしてしまった三成、不運の武将であった。
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2007年05月09日

関が原の戦いで名将直江兼続を苦しめた最上義光

家督争いで家督を奪った義光だがさらなる試練を迎えた。

慶長3年(1598年)8月に秀吉が死去すると、義光は徳川家康に接近する。次男の最上家親が徳川秀忠の近侍を務めていたこともあり、秀吉生前から家康とは昵懇の仲にあったともいわれる。

慶長5年(1600年)、家康に反抗する会津の上杉景勝・直江兼続らが軍備を増強していることを家康に密告する。
そしてこれらの報告もあって、家康は会津征伐を開始した。これが関ヶ原の戦いの契機となったともいわれる。義光は上杉景勝との対抗上から、東軍(徳川方)に味方した。しかし、家康が会津征伐に赴いている最中に、上杉氏と昵懇の関係にあった石田三成らが、反家康を名目にして上方で挙兵する。

家康はこれを知ると、義光と伊達政宗、結城秀康らに上杉景勝の牽制を命じて、上方に引き返した。

このため、上杉景勝は東軍に味方した周囲の敵対勢力を潰すために重臣の直江兼続に2万5,000余の軍勢を預けて、山形に侵攻させた。
これに対抗する最上義光軍は7,000余でしかなかったが、上杉軍に対して最上義光は2,000挺もの鉄砲を駆使して抗戦した。このため、上杉軍はわずか350名の最上兵が篭城する畑谷城を落すのに3日間を費やし、多数の死傷者を出した。

その上、山形城の要となる長谷堂城を攻撃するが、最上軍の強さに苦戦した(長谷堂城の戦い)。
このとき最上軍は前田慶次や剣豪の上泉と戦う。上泉を討ち取り丁重に葬った。

伊達政宗は義光に援軍を派遣したが、最上領で戦局を見守るに留まった。
もしこの時に伊達政宗が最上家を滅ぼして東北を制覇していたら、天下を取っていたかもしれませんね。
皮肉なことに正宗の母は義光の妹でこのときは最上家の元にいました。
結局、上杉軍は関ヶ原の戦いの敗報を聞いて長谷堂城の包囲を解き、米沢城に退却した。

西軍敗戦の報を聞いた義光は追撃戦を行うが、上杉軍の激しい防戦に遭い、直江兼続を取り逃がした。
この直江兼続の退却戦は後世までかたり継がれている。

しかし、庄内地方では逃げ遅れた上杉軍を潰滅させ、庄内地方奪還に成功した。

義光は上杉軍を撃退した功により、長谷堂城攻防戦後に攻め取った庄内地方などを加えられ、置賜郡を除く現在の山形県全土と由利郡(佐竹氏との領土交換により、当初所有していた雄勝郡・平鹿郡と引き換えた)計57万石を領し、出羽山形藩の初代藩主となった。
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