2007年04月20日

明智光秀を裏切った細川藤孝 

細川 藤孝(ほそかわ ゆうさい)天文3年4月22日〔1534年6月3日〕 - 慶長15年8月20日〔1610年10月6日〕)は、戦国時代(室町時代後期)から江戸時代初頭の大名、戦国武将。歌人・茶人でもある。
藤孝は初め室町将軍家の足利義藤・足利義昭に仕え、後に織田信長、豊臣秀吉、徳川家康に仕え重用された。
丹後国十二万石の領主である。

有能な幕臣として活躍していたが、永禄8年(1565年)の永禄の変で13代将軍足利義輝が三好三人衆・松永久秀に暗殺されると、囚われの身となっていた義輝の弟・一乗院覚慶(後の15代足利義昭)を救出し、越前朝倉氏を頼った。還俗させた足利義昭を将軍職に就けるために明智光秀を通じて織田信長に接近し、義昭の後ろ盾となることを依頼した。
しかし、義昭は主君の信長によって幽閉の身となる。
明智光秀とは親友でもあった。織田軍団の中で唯一の文化人でもあったかさらなる親交を光秀と深めた。

しかし、その友情が壊れるときがきた。それは光秀が本能寺で信長を殺し秀吉と対決したときに、細川は行動をおこさなかったからだ。
ちなみに細川家嫡男の忠興の嫁は光秀の娘のガラシャである。

後に茶人の千利休とも親交をふかめる。
しかし、彼もまた切腹という非業の死を遂げるのである。

親交を深めた武将の非業の死をなまなまとみてきた藤孝はどうおもったのだろうか?
それでも生き延びて所領を増やし続けたので戦国武将として立派なものである。
子孫には総理大臣がいる。
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2007年04月14日

武田家を裏切った穴山信君の心中

穴山信君といえば武田信玄、武田勝頼につかえた名将である。

母は信玄の姉であり妻は信玄の娘だからまさに武田家親戚衆の重鎮である。
知行も甲斐の3分の1を与えられるほどで甲府にも屋敷をあたえられ、しばしば信玄や勝頼を補佐したのである。

1572年の信玄の西上作戦でも先陣をつとめさんざんと徳川家康を苦しめたのである。

しかし、信玄死後の長篠の敗戦後は勝頼やその取り巻きの跡部勝資、長坂光堅らと対立。

織田信長の甲州征伐の際に、かねてより内通していた徳川家康の進軍を先導した。この功により領土を安堵された。

このあと親戚集や重臣たちの裏切りにあった勝頼、しまいには親戚集筆頭の小山田信茂にまで裏切られる始末である。
勝頼一行は天目山で自害、ここで武田家滅亡とおもわれたが、うまいぐわいに存続したのである。

本能寺の変で信長が殺され、京都にいた徳川家康と穴山信君は伊賀越えの退却をおこなったのだが、このとき、信君は土民に殺害され家康のみ駿府にたどりついたのである。

家康は信君の長男を穴山家につがせ、5男を武田家につがして両家存続をなしとげたのである。

家康と江尻城主時代からのつきあいがあった信君の人脈の賜物である。




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posted by しげる at 22:48| Comment(0) | TrackBack(0) | 戦国武将の手腕 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

戦国最強の水軍大将 九鬼嘉隆

戦国時代に安宅船と呼ばれる軍船を率いて当時海軍大将は九鬼嘉隆である

信長に仕えて当時最強だった、毛利水軍を破ると、さらに巨大戦艦の建造にとりかかった。これをみた豊臣秀吉は最強の意味で「日本丸」となずけた

こうした九鬼嘉隆は織田、豊臣の時代を通して最強の水軍大将となったのである。

鉄甲船は織田信長の案であるが、それを設計して、建造したのは九鬼嘉隆である。まさに日本一の造船家でもあった。

ちなみに水軍という言葉は戦国時代にはなかったようだ。この時代は海賊、または警護衆とよばれていた。
彼らは商船などの護送を行い生計を立てていたようだ。
どの戦国大名とも等間隔の距離を保って自由な立場でいたようだ。

しかし、九鬼嘉隆だけは信長の家臣になり、発展していった。

しかし1600年の関が原の戦いで嘉隆は西軍に子の守隆は東軍についた。
東軍勝利ごは、守隆は加増を断り、父嘉隆の助命を願った。
しかし、嘉隆は自害して、その生涯を閉じたのである。

子の守隆は海のない丹波の綾部藩主となり、海ときりはなされたのである。
posted by しげる at 21:16| Comment(0) | TrackBack(0) | 戦国武将の手腕 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする