藤孝は初め室町将軍家の足利義藤・足利義昭に仕え、後に織田信長、豊臣秀吉、徳川家康に仕え重用された。
丹後国十二万石の領主である。
有能な幕臣として活躍していたが、永禄8年(1565年)の永禄の変で13代将軍足利義輝が三好三人衆・松永久秀に暗殺されると、囚われの身となっていた義輝の弟・一乗院覚慶(後の15代足利義昭)を救出し、越前朝倉氏を頼った。還俗させた足利義昭を将軍職に就けるために明智光秀を通じて織田信長に接近し、義昭の後ろ盾となることを依頼した。
しかし、義昭は主君の信長によって幽閉の身となる。
明智光秀とは親友でもあった。織田軍団の中で唯一の文化人でもあったかさらなる親交を光秀と深めた。
しかし、その友情が壊れるときがきた。それは光秀が本能寺で信長を殺し秀吉と対決したときに、細川は行動をおこさなかったからだ。
ちなみに細川家嫡男の忠興の嫁は光秀の娘のガラシャである。
後に茶人の千利休とも親交をふかめる。
しかし、彼もまた切腹という非業の死を遂げるのである。
親交を深めた武将の非業の死をなまなまとみてきた藤孝はどうおもったのだろうか?
それでも生き延びて所領を増やし続けたので戦国武将として立派なものである。
子孫には総理大臣がいる。

