2008年02月23日

単身赴任の滝川一益

滝川一益といえば織田信長の重臣でもあり関東管領の職についた武将でもしられています。

おもな戦歴として1576年の北伊勢攻めで活躍して、1582年には名門の武田勝頼の首級をあげています。

この功が生じて関東の守り役となりました。
厩橋城に入った一益のもとには、大勢力の北条氏だけでなく東北の伊達や蘆名までもが彼のもとに挨拶にきたほどの統率力をもっていたのである。

滝川はけっして勇猛果敢な武将だったわけではないようだ。
どちらかといえば計算高い武将だった。
越前の朝倉を滅ぼしたあと、所領安堵の事務的業務を明智光秀と羽柴秀吉といった頭脳的武将とひけととらない仕事ぶりでその業務をこなしたのである。

政務に長けた信長軍団のなかで貴重な逸材でもあった。
posted by しげる at 15:32| Comment(0) | TrackBack(1) | 戦国武将の手腕 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

関が原の戦いを1日で終結させた小早川秀秋

父は羽柴秀吉正室・北政所の兄。3歳で秀吉の養子となる。秀吉の親戚で太閤になれるはずだったが?

秀吉に実子秀頼が生まれると、翌年安芸・毛利氏臣小早川氏に養子に出された。つまり追い出されたのである。

筑前52万石を領有。慶長の役では総大将として出陣している。
この時朝鮮で女や子供までも大量に殺害して秀吉から叱責されている。

関ヶ原の合戦では西軍として参陣した。このときに西軍を裏切り天下の名将の大谷吉継の陣に攻め込んで討ち取った。

これを機に西軍がどんどん裏切りをして、関が原の合戦は1日で終わった。

戦後、備前、美作に50万石を得たが、まもなく亡くなった。嗣子なく小早川宗家は断絶。

この後小早川秀秋は裏切り者と後世にかたり継がれますが、名将には違いありません。

なぜなら天下分け目の合戦を1日で終わらせ戦乱から農民や一般市民を守ったのですから。
posted by しげる at 02:05| Comment(0) | TrackBack(0) | 武将のその時 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年02月12日

徳川四天王 井伊直政

井伊直政(いい なおまさ) 1561生〜1602没 

 父の死後、難を逃れて隠れ住んでいたが、やがて三河・松平元康に近侍する。
相模・北条氏との和平交渉の功にて、滅亡した甲斐・武田旧臣を配下に加えて甲州流軍式を取り入れ、赤の軍装で統一、“井伊の赤備え”“井伊の赤鬼”と呼ばれる。トンボきりの本多忠勝とはよきライバルでもあった。
長久手の合戦には先鋒として参加し豊臣秀吉軍と戦う。

関ヶ原の合戦においても活躍するが、こののち没した。

大阪夏の陣まで生きていたなら同じ甲州流の赤備えの真田軍との歴史的な合戦をしたでしゅう。惜しまれる死であった。
posted by しげる at 11:48| Comment(0) | TrackBack(1) | 武将のその時 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年02月01日

武田信玄の参謀、武田信繁

武田信繁(たけだ のぶしげ) 1525〜1561 

 甲斐・武田氏一族。左馬助の唐名"典厩、古典厩"の名で知られる。
父信虎の偏愛を受け、疎んじていた兄信玄より2男の彼に家督を譲ろうと考えていた程であった。
しかし父が信玄に追放された後も信玄と不和ではなく、むしろ慕って臣従し、文武両面に助けて、"武田の真の副将軍"として信玄の信頼厚く、家臣領民の信望も非常に高かった。

塩尻峠の戦いでは騎馬隊500騎で5000の兵をやぶるなど名武将ぶりも発揮している。

また信玄とともに甲州法度を定めている。まだ結束のなかった武田軍団の団結を作ったのは信繁である。山県、内藤、馬場、高坂といった武将たちの心服させれたのも信繁の力量の賜物であった。

信濃攻略等に活躍するが、越後・上杉氏との川中島の合戦において、主力不在の本陣を突かれた際、これを寡兵にて死守、戦死した。
命を懸けて兄であり主君を守った信繁は戦国随一の武将である。
posted by しげる at 11:01| Comment(0) | TrackBack(0) | 参謀の生き様 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年12月29日

秀吉を恨んだ猛将 佐々成政

佐々成政は信長亡きあとも最後まで秀吉に反抗した武将でした。

前田利家とともに柴田勝家の与力となり数々の武功をあげました。

やがて富山城主になります。

この時に秀吉と家康の戦いの”小牧長久手の戦い”がおきます。

69歳の成政は家康に仕えるべく家康に会いに行きます。
この時にとった浜松城までのルートは日本アルプスの立山越えでした。
時の登山史上初の冬山越えでしょう。

しかし浜松についた頃にはもうすでに講和されていました。

秀吉の富山攻めで負け自害せずに、しかも命乞いをしました。
朝鮮の役で活躍し肥後一国を得ましたが、秀吉打倒のための軍資金確保のために大検地を行った結果大規模な農民一揆に合い、その責をとわれて、73才で切腹しました。この時秀吉の居城の大阪を眺めて腹を切りました。

名家あがりの成政にとって農民上がりの秀吉が出世するのが彼のプライドを傷つけたのでしょう。

300年後の帝国陸軍が行った八甲田山の雪中行軍は佐々成政の行った立山越えを故事としたもです。

posted by しげる at 03:43| Comment(0) | TrackBack(3) | 武将のその時 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年12月28日

武田信玄の重臣、板垣信方

板垣といえば武田信虎、信玄の2代にわたって仕えた武田家の重鎮である。

甲府の板垣庄の名族である。
同僚の甘利とともに両職とよばれ、信玄を補佐した。

諏訪平定で大きな功績をあげて、信玄から諏訪の上原城で郡代として任命される。

また、軍師の山本勘助の登用している。

しかし、信玄のライバルである村上義清との戦いで上田原で討ち死にしている。このとき、甘利も討ち死にしている。

信玄にとってこの上田原の戦いは生涯でもっとも痛い敗北でもあった。

信方が上原城にいた頃は善政を行い領民からも慕われていた。また武田勝頼の母親も保護をし、武田家に尽くしていた信方の死は信玄にとって最大級の汚点でもあった。



posted by しげる at 10:40| Comment(0) | TrackBack(1) | 参謀の生き様 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年11月18日

秀吉のブレーン黒田如水

黒田如水ころ官兵衛はあの竹中半兵衛の後継者の軍師です。
信長なきあと秀吉の相談役として秀吉に天下を取らせました。
さらに秀吉から100万の兵を動かせるのは官兵衛だけだといわれたほどでもあります。

しかぢ43の若さで隠居しました。それは秀吉が黒田の才覚をおそれたからです。現代のサラリーマンの世界でもあることですが並外れた実力者はトップから恐れられます。
かくして如水は家督を息子の長政にゆずりました。
そして幕末まで家をまもりました。

”決断は瞬時にせよ”と優柔不断の息子の長政に最後にいいきかせた。頭の切れる軍師であった。

史記〈2〉乱世の群像史記〈2〉乱世の群像
販売元 : Amazon.co.jp 本
価格 :
[タイトル] 史記〈2〉乱世の群像
[著者] 司馬 遷
[種類] 文庫
[発売日] 2005-11
[出版社] 徳間書店

>>Seesaa ショッピングで買う
posted by しげる at 15:17| Comment(1) | TrackBack(0) | 参謀の生き様 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

甲斐の甲州法度と武田信繁

武田信繁といえば武田信玄の弟で、信玄が父親を追放してからも信玄に忠節をつくしました。

主な活躍としては、甲州法度を定めたことです。
この法律は君主も適用されるという当時では珍しい法度でした。
甲斐の国を治めた信玄ですが、家臣の忠誠心も薄かった当時には画期的な発想でした。

また中途採用も積極的におこない有能な人材の確保もしました。
当時はよそ者をうけつけない武田でしたが、これ以降は、山本勘助や真田幸隆といった有能な武将が武田にくわわりました。
同郷も者同士を同じグループにわけ、また同じ性質も者を同じグループ分けした働きやすい環境を整え、また、特殊技能者には固定給の他に特別手当を支給しました。
当時では画期的な発想でした。

その政治的にすぐれた信繁でしたが、1561年の川中島の合戦で戦死しました。

武田信繁こそ最強の組織のナンバー2でしたね
posted by しげる at 07:31| Comment(0) | TrackBack(1) | 武将のその時 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年11月16日

天下を狙う織田信長の戦略

1560年に東海地区の英雄、今川義元を討ち取った信長は、天下人の野望を抱いた。

他にも天下の野望をいだいた、武田、上杉、島津、伊達もいたが、その戦略眼は他と違っていた。
それは現代でも通用する流通の支配であった。

まずは将軍の足利義昭を擁立して、副将軍や管領といった役職には目もくれずに、堺や草津、大津を支配した。これらは流通の要となる都市である。

これによし中国地方と東海、北陸の流通を抑えたのである。
まさに合理主義者であった。

それから鉄砲に注目して、長篠の戦いでは、最強の騎馬軍団を誇る武田家に圧倒している。

南蛮人とも積極的に接して、フロイスやオルガンチーノから各国の軍事情報や、造船技術といったものを吸収した。

鉄板で覆われた軍船をつくり、九鬼嘉隆水軍が毛利の村上水軍に圧倒している。

近代技術と合理主義で毛利、武田を破った信長は近代国家のさきがけでもあった。
posted by しげる at 00:07| Comment(0) | TrackBack(0) | 武将のその時 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年11月15日

英雄の晩年 北條早雲 享年88歳の生き様

80歳を過ぎた早雲だが、名門の三浦氏を滅ぼして伊豆と相模の2カ国を制圧した。長男の氏綱の家督を譲ってからも裏で風間の小太郎とともに裏で北條家を支えた。

下克上を駆使して戦国の世の口火を切った早雲だが、88歳で伊豆の韮山城でその生涯をとじた。

3代目の氏康まで発展した北條家だが5代目の時には、豊臣秀吉に敗れて滅んでいる。
posted by しげる at 13:58| Comment(0) | TrackBack(0) | 武将のその時 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする